金子兜太
H:自由時報20180401W7副刊介紹金子兜太。
維基百科介紹:
金子 兜太(かねこ とうた、1919年(大正8年)9月23日 - 2018年(平成30年)2月20日)は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。
基本データ: 国籍, 配偶者 …
金子 兜太
(かねこ とうた)

2015年撮影
誕生1919年9月23日
 日本 埼玉県比企郡小川町死没2018年2月20日(98歳没)職業俳人言語日本語国籍 日本教育経済学士最終学歴東京帝国大学経済学部卒業文学活動社会性俳句運動、前衛俳句運動主な受賞歴現代俳句協会賞(1956年)
詩歌文学館賞(1996年)
現代俳句大賞(2001年)
蛇笏賞(2002年)
日本芸術院賞(2003年)
正岡子規国際俳句賞大賞(2008年)
毎日芸術賞特別賞(2010年)
小野市詩歌文学賞(2010年)
菊池寛賞(2010年)
朝日賞(2016年)配偶者金子皆子
影響を受けたもの
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来歴
1919年9月23日、埼玉県比企郡小川町の母の実家で、父の元春と母のはるの長男として生まれる。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。父の元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人である。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊し、秩父音頭の復興者としても知られている。伊昔紅の代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」で、桂三木助が「蛇含草」を演する時にこれを引用し、その流れから『ビートたけしのオールナイトニッポン』初回にビートたけしが「元旦や餅で押し出す二年糞」と同句を捻ったものを第一声としたために有名になった。
旧制熊谷中学を卒業し、1937年旧制水戸高等学校入学。高校在学中の1937年に、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。1939年に、嶋田青峰の「土上」に投句する。1940年に卒業し、1941年に東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。
1943年に大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行した。海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官され、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年に捕虜として春島アメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。1947年2月に日本銀行へ復職し、4月に塩谷皆子と結婚する。1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務め、その間に浦和から竹沢村に住居を移す。1950年末に福島支店、1953年に神戸支店、1958年に長崎支店へ転勤ののち、1960年に東京本店に戻る。支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めた。
1947年に「寒雷」へ復帰し、沢木欣一の「風」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴する。1951年に福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆する。1955年から日本ペンクラブ会員になる。1957年、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表して俳句造型論を展開し、自身の創作方法を理論化する。1958年に新俳句人連盟の中央委員に推薦され、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年10月号までの1年間担当する。1960年頃より前衛俳句の旗手に数えられる。
1962年に隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊し、1985年より結社誌となり主宰に就任する。
1974年から1979年まで上武大学で教授を、1983年から現代俳句協会会長、1987年から朝日俳壇選者をそれぞれ務め、1992年に日本中国文化交流協会常任理事、2000年に現代俳句協会名誉会長にそれぞれ就き、2005年から日本芸術院会員となる。2006年に妻の皆子が死去する。2015年にいとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者、ほかに一ツ橋綜合財団理事などを務めた。
2018年2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院するも、20日に急性呼吸促迫症候群で死去し、長男の真土とその妻が看取った。98歳没。
作品・俳論
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(『少年』、1955年)
水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(『金子兜太句集』、1961年)
彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン(『金子兜太句集』、1961年)
人体冷えて東北白い花盛り(『蜿蜿』、1968年)
霧の村石を投(ほう)らば父母散らん(『蜿蜿』、1968年)
暗黒や関東平野に火事一つ(『暗緑地誌』、1971年)
梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』、1981年)
おおかみに蛍が一つ付いていた(『東国抄』、2001年)
夏の山国母いてわれを与太という(『東国抄』、2001年)
などが代表句として知られる。素朴で骨太の叙情、スローガン的とも言われるダイナミックな文体を特徴とし、戦後俳壇の中心的存在として伝統派の飯田龍太と並び称される
戦後参加した社会性俳句については、沢木欣一が社会主義イデオロギーを根底にもった句と規定したのに対して、「社会性は態度の問題」であり「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする「社会的な姿勢」が意識的に取られている態度」であるという見解を示す(1954年、「風」誌のアンケート)。1957年の「俳句の造型について」では、従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱。のち1960年に、「創る自分」を発展的に解消した「造型俳句六章」へと繋がった。この前後から前衛俳句の旗手とも見なされ、中村草田男、山本健吉らの俳句観と対立し論争も行っている。また小林一茶、種田山頭火を論じ、漂泊詩人の再評価も行った。
主宰を務める「海程」の結社活動においては、「俳諧自由」をキーワードに個性重視の方針をとり、門人を自身の俳句観に従わせるのではなく、それぞれの個性を発揮できるようにするためのアドバイザーとしての立場に身を置いているとしている。
我流の個性的な書も人気を得ている。2015年7月・8月に全国で掲げられたプラカード「アベ政治を許さない」は、澤地久枝の依頼を受けて揮毫したものである。
受賞・栄典
1978年 - 埼玉県文化賞
1996年 - 第11回詩歌文学館賞(句集『両神』)、勲四等旭日章
1997年 - 第48回日本放送協会放送文化賞
2010年 - 第51回毎日芸術賞特別賞、第22回小野市詩歌文学賞(句集『日常』)、第58回菊池寛賞
2015年 - 第30回下町人間庶民文化賞
著書
句集
『少年』風発行所、1955年。
『金子兜太句集』風発行所、1961年。※第二句集として『半島』を収める
『蜿蜿』三青社、1968年。
『暗緑地誌』牧羊社、1971年。
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